「立つべき所」

司祭 ヨハネ 芳我秀一

 降臨節(こうりんせつ)を迎えました。教会の暦では降臨節から1年が始まります。中世の宗教詩人の詩の中に「キリスト千度ベツレヘムに生まれても、あなたの中に生まれなければ、あなたはなお永遠に救われない」という有名な言葉がありますが、果たして私たちの中にキリストは宿っているのでしょうか。

〈錯覚する人間〉
 確かに自分自身の中を見つめ直すことは大切ですが、なかなか人間は本当の自分の姿に気がつきません。特に科学技術が日に日に進歩して、めまぐるしく情報が飛び交う現代社会の中で生活していると人間は大きな錯覚をしてしまいます。
 毎日、テレビやパソコンでニュースを見ていると次から次と情報が伝達されますが、すぐに消え去ります。つまり、情報は日々変化していますが、受け取る「私」は全く変化していないと思いこんでいます。果たしてそうなのでしょうか。以前、高知の教会に勤務していた時、地元の新聞社を訪問したことがあります。その時、百年前の新聞が展示してあるのを見ましたが、百年経(た)った今、情報は残っていますが、読んだ人は最早(もはや)この世にはいないのです。人間こそ常に変化し、やがて滅び去ってしまうと言うことです。

〈イエスの警告〉
 このように正しく自分自身を把握できない人間ですが、イエス様の弟子たちも同様でした。だからイエス様は彼らに言われました。『だから、あなたがたは気をつけていなさい』(マルコ伝13:23前半)。また『憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら−読者は悟れ−、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい』(マルコ伝13:14)と。この憎むべき破壊者とか、立ってはならない所に立つ者とは誰でしょうか。「立ってはならない所」とは人が立ってはならない所であって、神様のみが立つことのできる所、という意味です。ですから、神が拝まれる所では、どこであっても、神以外の者が立ってはならないのです。

〈人間の立つべき所〉
 一方、イエス様は十字架の上に釘で打ちつけられました。十字架上は本来、罪人が処刑されるために立つ所です。ところが神の子であるイエス様がそこに立っておられる。これはおかしな話です。むしろ、イエス様を死刑として裁いた人間こそ、立ってはならない所に立っているのです。この裁く人間こそイエス様を裏切り、従いきれない私たち一人ひとりではないでしょうか。私たちは自分の価値観や許容範囲にはまらない者を平気で裁いてしまいます。本来、私たちこそ十字架上に立つべきなのに、イエス様が身代わりとして立っておられるのです。 私たちが、立ってはならない所に立たないために必要なことは、私たちがイエス様から愛され招かれている者であるとの確信をもって生きることです。ですからクリスマスには聖餐に与(あずか)り、キリストの体と血をいただいて、イエス様を私たちの中にしっかりとお迎えして、神の子の誕生をご一緒に喜びたいものです。


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