私は10歳まで垂水で育ちました。そのころの垂水は宅地開発の真っ只中で、そのため少年期に自然にふれるという機会はあまり多くありませんでした。しかし、この10年程は子供の成長とともに、いろいろな外遊びをしました。
前任地の山陰で良くしたのは手長エビ捕りです。河口のように少し塩分のある汽水域にいるエビで、幼稚園のお父さんたちを誘って、何人かのエビ捕り仲間もつくりました。私は釣りをほとんどしないのですが、エビ捕りにはよく出かけました。
米子市と松江市の境にある中海の塩分濃度は、海水の半分程で、おとなりの宍道湖は十分の一程だといいます。
生物の体液の塩分濃度はだいたい海水の半分程度といいますが、このほどよい塩分域が、この地域の多様な生き物を育んでいました。
さて、イエス様が過ごされたパレスチナには、塩分濃度が海水の六倍というとても塩辛い死海という湖があり、岸辺には塩が結晶となって、鍾乳洞の柱のような塩柱が林立する場所さえあります。泳げない人でも、決して溺れることはありません。浮き袋なしでもプカプカと浮いて、そのままお茶を飲んだり、本を読むことさえできます。最近では、その死海産の塩や泥が、美容によいバスソルト等として日本でも売られています。
<必要不可欠>
「あなたがたは地の塩である」という聖句は、イエス様が人々に語りかけられた言葉です。 「敵に塩を送る」ということわざがあるように、塩は生きて行くためには欠くことができないものですが、ただ単に生きていく上で必要な成分というだけでなく、腐敗を防いだり、素材の持ち味を引き出すという効果もあります。
実際のところ、料理にとどまらず、お菓子やアイスクリームにいたるまで、塩が使われていない食品を探す方が難しいほどです。 また、塩は味の変わらないものであることから、「共に塩を食する」ということは、聖地では変わらぬ友情の象徴となっていたそうです。日本風に言えば「同じ釜の飯を食った仲間」となるのでしょう。 イエス様が「あなた方は地の塩である」といわれたことは、ただ自分たちだけ清く生きていけば良いというのではなく、社会の中によくとけ込んで、世の中全体を守るという使命が与えられていることを意味しているように思います。 「自分たちだけが清く正しくあればそれでよい」というのであれば、塩の固まりのように、ただ塩辛いだけで、美味しくもなんともない存在になりかねません。
<全ての者が>
イエス様は「塩のような人になりなさい(・・・・・)」ではなく、あなたがたは「地の塩で(・)ある(・・)」と断言されています。
世の中を引き締め、調和をもたらす存在であることは、たとえ幼子も例外ではなく、夫婦の間に生じる様々な亀裂も、子どもが「かすがい」となって、つなぎ止めてくれるということは、よく言われていることです。
全ての人がかけがえのない存在として社会の調和を守り、他者の持ち味を引き出す力が与えられているということを覚えて、教会の誕生日ともいうべき聖霊降臨日を迎え、信仰の歩みを進めることができればと思います。
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