秋に向かって

司祭 パウロ 上原信幸

 いよいよ大聖堂の耐震改修工事も完了間近となり、28日に聖堂の備品の搬入を行い、29日から聖堂で礼拝が行われることになりました。
 約2ヶ月の間、聖堂ではなく地下ホールで礼拝が行われ、駐車場も備品や資材置き場となったため、車の駐車に苦心された方もおられるでしょう。
 私はというと、3月から引越が続いているような気分で、私物でダンボール箱から出してないものも多く、教会の資料等も倉庫や書架がなくなったため、やはり箱詰めのまま数ヶ月過ぎましたが、ようやくそれぞれの新しい場所が決まっていきます。
 不自由だったかというと、慣れるのも早く、気にもならなくなります。しかし、気がついていないだけで、大切な情報をしまい込んでしまって、多くの方にご心配や、ご迷惑をかけているのかもしれません。
 同じ状況が続くと、それに慣れてしまうわけですが、鈍感というのも、本人には良くても、はた迷惑な話です。

日常の中で

  先日、甲子園で優勝した興南高校野球部監督の我喜屋さんが、選手たちに毎日散歩をさせて、新しく気がついたことを発表させているというエピソードの紹介がありました。
 厳しい練習に明け暮れる生活の中で、何気ない日常の中に新しい発見を求めるということは、非常に興味深いことです。
 そのようなことを、たまにではなく毎日続けるというのは大変なことだったでしょう。
 甲子園を目指し、また他の強豪を相手に、春夏2連覇、また沖縄県勢として、夏の初優勝という目標に対して、プレッシャーや焦りといったものを感じながら、野球とは関係のないと感じられることに、時間を費やすわけですから。
 しかし、そのような日課を欠かさず行うということは、野球に限らず精神面を向上させる効果があるようです。
 逆に言えば、小さな事でも毎日継続することは大変なことで、やり続けることによって精神的に大きく成長するということだと思います。
 他の競技のでも、日本一になった生徒が、「毎日欠かさず皿洗いをしたおかげです」と優勝後のインタビューで、胸を張ってこたえたというエピソードを聞いたこともあります。

倦まず、たゆまず

 人間は、同じ状況がながく続くと飽きて継続することがいやになります。そのような状況がおきるからこそ聖パウロは、「倦まずたゆまず」と勧めています。
 「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。」

ガラテヤの信徒への手紙  6章7節〜10節


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