新しい年のはじめに

司祭 パウロ 上原信幸

 いよいよ2010年が終わり、私たちは新しい年を迎えようとしています。年始にふさわしい話題ではないかもしれませんが、「もし明日が、この世の終わりだとしたら、何をするか」そんな話をされたことが、だれしも一度くらいはあるのではないでしょうか。
 私の場合は、一人が「高級レストランで、おいしいものをおなかいっぱい食べる」というと、「そんな日に、他人のために料理を作ってくれる人など、いるはずがないわ!」と漫才のような会話になったことがありました。
 私自身は何を考えたかというと、日頃の行いが悪いので、せめてその日ぐらいは、しおらしくして、あれも赦してください。これもいつか借りは返しますのでと、ひたすらお詫びの日になるのではないかと思います。
 ちょうど子どもの時、通知簿をもらった日だけは、おとなしくしていたように。

 世の終わり

 復活されたイエス様は、最後に「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と教えられました。 
この言葉が聖マタイによって書きとめられた時代は、教会にとって、厳しい迫害の時代でした。
もちろん反社会的な活動をしていたわけではないのですが、「自由」「平等」「博愛」などの考え方は、当時にあっては非常に危険な考え方で、身分による差別は、「ある」のが当たり前でした。
 国土を広げるための戦争は、ローマ帝国の各地で行われ、市民は戦争によって得られた物資や、奴隷といった人材によって潤い、「パンとサーカスには不自由しない」と言われた享楽的な時代でもありました。
 聖パウロは、「わたしたちは、飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。今に至るまで、わたしたちは世の屑とされています。」と書き残しています。初代教会のクリスチャンにとって、世とは苦難の世でした。

 新しい世界

私たちは、「世の終わり」と聞くと、地球の破滅を考えますが、この聖句を聞いた人たちは、「夜明け」「新しい時代の幕開け」を思ったことでしょう。
「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。」
 これは聖ペテロの言葉ですが、世界の滅亡ではなく、新しい世界の始まりを夢見ていました。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」この言葉は、苦難の時代が続く間、神様は離れることなく共におられるという約束の言葉でした。
 新しい年が始まったとはいえ、以前からの試練がなくなるわけではないでしょうし、また、新しい生活の始まりは、それはそれで様々な新しい試練を生むでしょう。
 しかし、困難の中にあっても、決して一人ではないという希望を持ち続けることができるように、共に歩んでまいりましょう。

「わたしは世の終わりまで
いつもあなたがたと共にいる」
マタイによる福音書28章20節


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