なぜ、天を見上げて立っているのか

司祭 パウロ 上原信幸

 1月1日から数えると、1年の折り返しは6月末ですが、教会暦ではクリスマスの準備から始まりますので、1ヶ月早く折り返しを迎えます。
 大斎節やイースターなど、遅い遅いといわれた今年の暦ですが、それでも間も無く昇天日・聖霊降臨日を迎えます。
 さて、東日本大震災で目にした福島県の海沿いの幼稚園のことが気になっていたのですが、先日福島の私立幼稚園の施設被害がニュースになっていました。 全壊または流失が2園、半壊が3園、一部損壊が66園、原発事故の影響で休園・退園した園児は約2千人に上っていることです。
 これはあくまで私立幼稚園だけの数で、公立幼稚園や保育園の数は入っていません。
 子どもたちは安全に遊ぶ場所を失い、そして多くの友達を地域から失っています。
 そして、幼稚園や保育園は、地域の子育て支援の役割を担っていましたから、保護者も大切な場所と支援者を失っています。 経済的な問題だけでなく、大きな喪失感・不安感を抱きながら生活することを余儀なくされているわけです。

 不 安 感

 2000年前、イエス様の弟子達は、イエス様が昇天されたあと、大きな喪失感を感じていたことでしょう。
 そのときの様子を、ルカは使徒言行録に、次のように記しています。「イエスが離れて去っていくとき、弟子達は天を見つめていた。」
 ただただ口をポカンとあけて、天を見上げていたわけです。そのとき、彼らは天使に「なぜ、天を見上げて立っているのか」とたしなめられます。
 「イエス様の弟子となった人たちの集まり」これを教会といったわけですが、非常に弱い人間の集まりでした。イエス様と暮らし、主の受難とご復活を経ても、それは変わりませんでした。
しかし、主のご昇天と聖霊降臨を経て、つまり自分たちの目の前からイエス様が見えなくなった後、彼らは変わりました。
 もちろん喪失感はあったでしょう。しかし、失った以上に大きなものが与えられたわけです。 それは気分の問題というようなものではなく、満ちあふれてくる力となって、彼らを支えました。
 聖パウロが、「私たちはキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」とエフェソの信徒に書き送ったことは、「主は、私たちの内に充ち満ちておられるのだ」ということです。

わたしたちの内に

 「天の国は、ここにある、あそこにあるというものではなく、私たちの内にあるのだ」とイエス様はおっしゃいました。
 天国は雲の上にある場所ではなく、神のおられるところのこと。昇天されたということは、取りも直さず、私たちの内においでになったのだということを覚えたいと思います。
 日本聖公会では、いっしょに歩こうプロジェクトを立ち上げ、京阪神聖公会では特に福島県いわき市以南地域の支援活動を継続しています。
 阪神淡路大震災の時もそうでしたが、仮設住宅などが建ち、生活がすこしずつ前を向きだした時に、喪失感・孤独感に苛まれる人が増えていきました。
 このような時に、私たちが持っている信仰の原点、喪失感を上回る希望があるということを、今の日本にあって伝えることができればと思います。


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