7月下旬に神戸教区と縁ある、末永恵司祭(北関東教区 82歳)、小池俊男主教(大阪教区 102歳)が続けて逝去されました。
末永司祭は下関、小池主教は松江のご出身でしたが、それぞれの葬送・通夜のお話は、下関で少年時代を過ごされた中村主教、米子で少年時代を過ごされた山本眞司祭(芦屋聖マルコ教会牧師)が、昭和20年代から30年代にかけての思い出を交えながら説教されました。
日本が非常に貧しかった時代から、戦中も含め広い地域で伝道に従事された先輩方の様々なエピソードや、そのようなお交わりの中から、多くの働き人が誕生したことをうかがいました。
教会はまさに旅する教会なのだということを、あらためて感じました。
故郷を離れて
聖書の中に、旅空でイエス様が、「人々は私のことを何者だと言っているか」と、弟子たちにお尋ねになった所があります。
弟子たちはイエス様の質問に口々に答えて、人々の間での評判について「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤや、エレミヤなど預言者の一人だと言う人もいます。」と答えました。
彼らは、自分が従っている先生がそのような大預言者と並び称されていることを誇らしげに思いながら、答えたことでしょう。
しかし、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」このイエス様の質問に対しては、弟子達は口々に応えたというふうには書いてありません。ただ、ペテロさんだけが答えます。
このときなぜ弟子たちが口ごもったのかを考えてみると、この直前の箇所では、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって処刑されたことが記されています。このとき、イエス様一行は、フィリポ・カイサリアに行かれていました。
都からも、故郷からも離れたカイサリアという奥まった土地です。
弟子達は、イエス様が王や指導者たちから強い反感を受けていることを身にしみて感じていたことでしょう。もしかするとこの旅も命をねらうものから、逃れての旅であったかもしれません。
弟子達はこの場所でイエス様と向き合うことに迫られます。
人々ではなく、「あなたは、わたしを何者だと言うのか。」このようにイエス様は問いかけられたわけです。
「この後多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される私を、あなたたちはなんと呼ぶのか」
これは、このときの弟子達にとどまらず、私たち一人ひとりにイエス様が問いかけておられることです。
あなたの為に、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される私を、あなたはなんと呼ぶのか、あなたにとって、私はどういう存在なのか。この問いに一人ひとりが答えなくてはならないというのが、今日のメッセージだと思います。
この夏、青年たちは東北を含め各地で活動を行います。逆に東北の中高生を神戸教区内にむかえてのプログラムも企画しています。
故郷を離れたキリストの弟子たちが、ペテロさんのようにイエス様をキリストだと告白し、天の国の鍵が委ねられる。このような体験ができればと願います。 |