東北ではこれからが桜の見頃のようですが、教会の門の桜は、葉桜に変わりました。北側の水仙は終わりましたが、こんどはスズランや菖蒲の類が花芽をつけています。南側ではユリが芽を出し、プランターの中も、ビオラやチューリップの花盛りで、春の花を当分楽しめそうです。
童話の中には、チューリップの花の中からお姫さまが生まれ、すみれの花びらのふとんで眠るというお話がありますが、ちょうどこのような時期に、思い浮かんだお話かもしれません。
北欧の童話作家アンデルセンの作品ですが、彼は150もの作品を世に送り出しました。
まだ双葉
彼は貧しい家庭に育ったそうですが、小さい時から文章を書くのが好きで、いろいろ書いては得意になって皆に読んで聞かせたそうです。
しかし、だれも褒めてはくれず、「忙しいから、そんなことにつきあってはいられない」と、しばしば邪険にされました。しょげかえって、家に帰ると母親が庭に連れて行き、彼に語ったそうです。
「きれいに花が咲いているでしょう。
神さまはこんなに美しい花を、さかせて下さったのよ。
でも、よく見れば、まだ芽が出たばかりの双葉もあるでしょ。少しずつ大きくなって、きれいな花を咲かせ、皆をたのしませることができるのよ。
あなたは、まだこの双葉よ。元気を出して一生懸命がんばりなさい」と励ましたそうです。
その後、彼はことあるごとに、この母の言葉を思い浮かべて、励みを与えられたと言われています。
彼の作品の中には、「みにくいアヒルの子」という物語がありますが、このような幼少期の経験が、色濃く反映されているように思います。
あきらめないこと
聖パウロは、「苦難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す。そして、希望は失望に終ることはない」という一節をローマの信徒への手紙の中に記しています。
生活の中では、様々な試練や挫折はつきものですが、使徒の時代にあった迫害を含めて、苦難が希望を生み出すということが、初代教会の信仰の確信だったわけです。
途中であきらめないことについて、イエス様は次のように教えられました。
「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」
新共同訳で使われるようになった「探す」という字は、見えない所や深いところを手さぐりでさがすという文字のなりたちのようです。
以前の聖書では、「捜す」という字を用いていましたが、「捜す」は行方がわからなくなったものを見つけようと、広く動き回りさがすことをさすので、最近の新共同訳聖書では、意図的に使いわけたようです。
しかし、さがす範囲の広さはさておいて、見えないものを手探りで探すという、あせりと苦しみ、そして努力と熱心さを、神さまはけして見捨てられないという約束に信頼を置いて日々を歩むことができればと思います。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」
マタイによる福音書7章7・8節
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