小犬も食卓から落ちるパン屑はいただくのです

司祭 パウロ 上原信幸

 6月に神戸教区の教役者修養会が愛媛県の松山でありました。
 西四国伝道区が当番で、柳本司祭と與賀田司祭にお世話になりました。共に当教会出身ですので、なじみの深い方も多いと思います。
 松山は、有馬と並ぶ日本最古の温泉地ですが、四国八十八箇所巡りの発祥の地とも言われています。薬師如来をお祭りするお寺もあり、ご家族のご病気の癒しを願ってのお遍路さんも少なくないのでしょう。

 癒しを願う

 聖書の中には、イエス様と病気の子どもをもつ女性との対話の箇所があります。この女性は、カナンの女と呼ばれる外国人であり、異教徒でした。イスラエルの神を信じているわけではなかったと思われます。
 しかし、この女性も、イエス様のガリラヤ地方での評判を聞いていたでしょう。「苦しいときの神頼み」といいますか、悪霊にひどく苦しめられている娘をどうにか助けたいという一心で、異国の神が遣わす救い主キリストに救いを求めたのです。
 イエス様とのやりとりで決して引き下がらないのも、彼女の子どもに対する必死の思いの現れでしょう。

 背 教

 けれども、必死な思いで求めている女性に対して、当初、イエス様は何もお答えにならなかったのです。
 さて、このカナンの女性のような体験は、多くの人が、ことに求道者が体験することのように思います。
 様々な宗教に救いを求めてみたけれども、救いを得られない。イエス様にすがってみたけれど、何も答えは無いことがあります。
 信仰を捨てた人とは、神様を裏切る前に、神から裏切られた体験を持つ人である。そんな言葉を聞いたことがあります。何も好きこのんで、信仰を捨てたのではなく、神様を信じたのに、神様に頼ったのに、聞いてもらえなかった。そのような失望が、人を背教者にするということです。そう言うと気の毒な気もしますが、ここに大きな信仰の落とし穴があります。
 私たち人間は、「神は、困っている人を助けるのがあたりまえだ」と信じているのです。「人が、いっしょうけんめい願ったならば、神様はその言うことを聞いて当然だ」とも考えているわけです。
 神様を信じるといってもそれは、あくまでも「自分が中心」な場合が多く、「私がこんなにお祈りしているのだから、願いを聞いてくれるのが当然だ」と考えるわけです。

 召使への命令

 しばしば、言われることですが、そのように考えるとき、私たちは、神という名をつけた召使いに命令しているのに等しいのです。私たち人間の願いをかなえられない神は、役立たずの神となるわけです。
 しかし、この女性は「神様から見れば、異教徒だった私は小犬に等しいかもしれません。もっともなことです。異教徒の自分は、神様の子どもと言われる資格はありません。しかし、神様の恵みの、おこぼれに預かるだけでも・・・」とこの女性は答えたわけです。
 このときイエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と答えられるわけです。弟子たちですら「この女を追い払ってください。」といったその女性に対して、「あなたの信仰は立派だ」とイエス様は言われるのです。
 私たちが、信仰とよぶものが、いつの間にか自分のご都合主義になっていないか。この女性のように謙虚に神様に信頼を置いているのか、試練・忍耐の時にこそ顧みなくてはならないと思います。


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