空の烏、野の花を見なさい

司祭 パウロ 上原信幸

 毎朝4時過ぎからカラスが夜明けの近いことを告げてくれます。それも複数で丁寧に、何度も何度も告げてくれるのです。しかし、感謝の念を持つことが、なかなかできません。
 イエス様は「空の鳥、野の花を見てみなさい」と語られましたが、マタイの福音書とルカの福音書では、「鳥」と「烏」と微妙に異なっています。
 微妙にというのは棒一本の違いなのですが、ルカでは「トリ」ではなく横棒が一本少ない「カラス」と書いてあるわけです。
 カラスというのは、イスラエルでは汚れた鳥の代表格で、荒廃した土地に住むと考えられていました。そのようなカラスを例えに用いてイエス様は 「カラスのことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神はカラスを養ってくださる。あなたがたは、カラスよりもどれほど価値があることか。
 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。」とおっしゃいました。
 野の花とは、百合やバラといったお花屋さんで売られているような花ではなく、ケシなどの雑草の花です。

  思い悩むな

 イエス様は、「野の花やカラスを見なさい」とはおっしゃいましたが、カラスのように生きなさいとはおっしゃっているのではないことに注意したいと思います。
 イエス様は「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。」とおっしゃいますが、当時の人びとの生活は、上着を2枚持っているものは多くなかったし、その日の食べ物の余裕すらなかった生活でしたので、売って施したところで、いくらにもならなかったでしょう。
 イエス様が語られようとしたのは、仕事や財産を捨てて、カラスのように生きなさいということではなく、財産を失うことを恐れて、あくせくするなということです。
 備えあれば憂いなしという言葉があります。しかし、精神的なことは別として、物質的なことに関していえば、備えれば備えるほど新しい不安が出てくるのが実情ではないかと思います。

  縛られることなく

 健康保険や介護保険、年金や児童手当など、昔はなかった制度が整ってきた現在の私たちと、そのようなモノがなかった、かつての人たちとどちらが将来への不安や不満を持っているのでしょうか。
 思い悩むということは、自分を煩わせていることに価値があるから、思い悩むのですが、人間を煩わせることは、仕事のこと健康のことなど沢山あります。
 そのようなものが失われていくことには、人間はだれしも不安を覚えるものです。
 しかし「神様は、様々なものを失っていく私たちを、王より美しく装う花よりも、整えてくださる。もっと美しく装ってくださる。自分の値打ちが失われることを恐れ、それらに縛られて生きることはないのだ。」それがイエス様の約束です。
 空の鳥よりも、もっと豊かに養ってくださるということに信頼して、日々を歩んで参りたいと思います。


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