永遠の住まいに迎え入れてもらえる

司祭 パウロ 上原信幸

 農業を営んでいる従弟と世間話をしている時に、今年は渇水で困っているという話を聞きました。川の水が少なくなったので、重機で川の側を掘り、ポンプで水をくみ上げているそうです。収穫の秋になろうとしていますが、生活に欠かせない穀物にも心配の多い秋となりそうです。
  聖書の中に穀物を譬に用いたイエス様のお話があります。管理人が勝手に、主人が貸した穀物の返済を減らしてしまうというルカ伝16章の話です。
 収穫した穀物の量が、そのまま収入を表す石高制というものがありますが、穀物は財産の指標です。
物語は麦百石(こく)(コロス)、油百樽(バトス)の負債がある者を呼び出しては、それぞれの大半を免除してやるというものですが、この逆の話は、この世の中でよくあることだと思います。
 つまり、借金を減らされるのではなく、増やされてしまうことです。テレビ等でも「債務の過払い金の返還請求を代行します」という法律事務所の宣伝を良く見ます。
 百の負債しかないのに、誰かによって二百も三百も負い目があるようにされてしまう。
 百という単位は、一生分の収入に相当する単位だと思いますが、その何倍も負債があれば、返せるはずはなく、だめな人間なんだとレッテルを貼られるようなものです。

  一生分の負債

 「たいせつなキミ」という絵本の中で、灰色のダメ印ばかりを貼られる小人が出てきます。同様に人生でプラスとなるようなものを、なに一つ生み出せないで、すべてマイナスばかりなのだと思い込んでしまうことがあります。
 そして、どうしようもない、あるいは、どうでも良いと思うのです。
 しかし、イエス様が語られる物語の中の「主人」は、とても変わっていて、自分に対する借金が、勝手に減らされてしまうのを、なんとも思っていません。
 むしろ、動機は管理人の自分勝手なものであるのに、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」とほめたのです。
 主人つまり神様という方は、仲間の負債を減らす働きは、それはそれで、いいじゃないかとおっしゃっているようにも思えます。
 働いても働いても、何も残らない生活は辛いものです。一生かかっても返せないという状況では、何もかもが嫌になります。

  仲間を作り永遠の命へ

 しかし、その負債が半分になれば希望も出てきます。この譬話のメッセージの一つは、他人の人生を重くするより軽くすることは、自分にとっても、良い人生であるということだと思います。
 不正な管理人のこれまでのやり方は、人のうわまえをはねて、自分の財産を殖やすような生き方でした。百の負債も、自分の取り分をたっぷりと取ったものだったかもしれません。
 「あなたは罪人だ。あなたは汚れている。あなたはだめな人間だ。」そのように人の負い目を、二倍にも三倍にも増やしていく生き方もあります。
 しかし、他人を下げることによって、自分の立場を高めるような生き方よりも、他人の負い目を減らしていく人生の方が幸せではないかということが、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」というイエス様の御言葉に現れています。
 この世の子である強欲な管理人でさえ賢明な方法を取ったのだから、あなたたちはもっと良い方法をとれるはずだ。光の子よがんばれとエールをイエス様は送ってくださいます。
 この秋、必ずしも景気が上向くとは限りませんが、だからこそ私たちが管理を任された賜物をより良く用いることができればと思います。


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