あなたがたにできないことは何もない

司祭 パウロ 上原信幸

 先日、教区の教役者修養会が六甲であり、久しぶりに山頂から神戸を一望しました。
 この50年の間にポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などが次々と誕生してきました。見るたびに風景が変わって神戸の街が広くなっていきます。
 また、マリナーズセンターのお手伝いで神戸港を訪れ、外国船の近くまで車を乗り入れると、海を越えた世界とつながった、別の次元の広さも感じます。
 人間が、希望をもって取り組んだとき、まさに山が海に移って陸地となったわけで、これらの人工島を見る度に次の聖句を思い起こします。 「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
 動かざること山のごとしは、風林火山の一節ですが、人間が自らの信念のもとに行動すれば山も動く。まして、神様に信頼すればもっとすばらしいことが起こるというのが、イエス様のメッセージだと思います。

  種一粒の信仰

 イエス様は、生きた桑の木に命じても海に移ると、同様の話をされていますが、いずれも私たちの信仰の薄さということがお話しのきっかけとなっています。 「わたしどもの信仰を増してください」という使徒たちの願いからこのような教えをされました。
 そのような使徒たちの願いの前にイエス様は「つまずきは避けられないが、それをもたらす者は不幸である。」「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とお話しになり、それに続く話として、「わたしどもの信仰を増して下さい」という言葉が続きます。「人をつまずかせてしまう信仰の弱い私達、人を赦すことができない私達に、もっと大きな信仰をください。」という弟子たちの切なる願いといえます。

  救いの遅れ

 しかし、願いはなかなか叶わず、あるいは遅いと感じることもあるでしょう。
 また、ハガイという預言者は、救いの遅れということについて次のように記しています。 「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。高慢な者の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」
 たとえ、遅くなっても待っておれとは、神様が遅れるということではなく、たとえ遅く感じたとしても、待っていなさいという意味だと思います。だからその言葉の続きは、「それは必ず来る、遅れることはない」という言葉へと続きます。
 もし、私たちが木が海に根を張り、山が移るほどの奇跡でも起こらない限り・・・と、気の遠くなるような困難に立ち向かわなくてはならなくなった時、このような希望のみ言葉を思い出すことができればと思います。


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