ぶどう園へ行って働きなさい

司祭 パウロ 上原信幸

 9月はミカエル教会にとって教会の創立を記念する月です。これまで多くの信徒、聖職の手によって築かれ支えられてきた教会ですが、神戸の町がどこにあるかさえ知らぬ多くの方々の、祈りと支援があったことを、6頁のステンドグラスの所でも書きましたが、改めて実感するところです。
 イエス様のたとえ話に、ぶどう園のたとえがあります。
 父親が息子達にぶどう園に行くように指示します。兄は「嫌だ」と答えますが、あとで考え直し出かけます。弟は「はい」と答えながらもいきません。
 一度承知しながら、結局は父の望みを聞かなかった弟は、当時の宗教的指導者たちを指しています。一方、初めは断ったのに、後で考え直して出かけていった兄は、当時罪人と蔑まれていた人達を指しています。
 二人の兄弟に共通していることは、父親が二人の子供に、責任のある働きを求めたときに、二人とも、父のいうことを聞かなかったということです。

  神様の思い

 人間というものは、程度の差こそあれ、神様の思いを受け止めて生きようとはしません。  私たちも、この兄弟のどちらかのような生き方をしているでしょう。どちらと言い切ることはできなくて時によって違うかもしれません。
 従いたいとは思っても、「聖書が説く道は理想が高すぎて、無理です。」とか、あるときは、「喜んで従いたいと思いましたが、急な用ができて実行できませんでした。」とか。この世のつきあいもあるし、家族のこともあるしとか。
 あるいは、キリスト教は信じているけれども、あの人はどうもいけすかないとか。神様に従って生きない理由はいくらでもあるでしょう。
 これは何千年も教会がたどってきた道でもあり、「あの人」を、「あの人種」とか、「あの国民」とか読み替えれば、どこでも通用する話です。
 罪人といいますが、その人が特に、人格や性格的に異常があるとか、特に道徳的に退廃しているとか、犯罪をおこなっているわけでもなく、自分を中心にして生きていることを「罪」と言います。
 神様に従って生きなさいと招かれているにもかかわらず、その招きをことわることが罪なのです。
 はいと答えて従わないものもいれば、最初はいやだという者もいます。
 罪人といわれた徴税人や娼婦は、もう道を踏み外して、もうぶどう園に象徴される神の国へもどる道すら思い出せなかったかもしれません。もどりたいと思っても敷居が高くて、帰れなかったかもしれません。

  導く仲間

 しかし、考え直して、ぶどう園へと行きます。なにがきっかけとなり戻ることができたのか。それは、「ぶどう園に導いてくれる仲間がいた」ということかもしれません。
 イエス様は、9月に読まれる福音書の中で、頻繁に兄弟という言葉を用いられます。ぶどう園のたとえで、イエス様は、「私が義の道を示した」とは語られません。
 この物語では、洗礼者ヨハネが義の道を示したと語られています。
 わたしたちは、神様からメッセージを託された身近な兄弟・仲間から、神様の言葉をいただくのです。
 その仲間は、家族かもしれないし、先輩や同僚だったかもしれません。 いずれにしても、どのような場所にいようとも、思い直すことはできる。ぶどう園にいくことはできる。「今でも、今となっても、できる」ということを覚えたいと思います。


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