私はアルファであり、オメガである

司祭 パウロ 上原信幸

 聖公会カレンダーの1頁は、12月から始まります。クリスマスの準備をもって教会暦の新しい1年を始めるわけです。
 ユダヤ暦のカレンダーでは、9月に新しい1年が始まります。どちらのカレンダーも2015年12月まで載せているので、聖公会カレンダーは13ページ、私が見たユダヤ暦のカレンダーは16ページになっていました。因みに今年はユダヤ暦の5775年なのだそうです。
 ユダヤ教の新年の行事には15日(満月の日)から始まる仮庵祭があります。秋の収穫祭で、喜びの時ですが、その直前に大贖罪日があります。スケープゴートの語源も、この日にあるのですが、教会暦と良く似ているのは、大祝日の前に、自らを省みる時を持っているということでしょう。

  節目の基準

 節目の持ち方は良く似ているのですが、キリスト教の節目には独自の価値観があります。
 一年の始まりの降臨節は、イエス様の誕生による「神の国の始まり」の知らせです。そして、一年の終わりは、古くから「王であるキリスト」の主日と呼ばれ、その特祷では、 「この世の人びとが、み恵みにより、み子の最も慈しみ深い支配のもとで解放され、また、ともに集められますように」と祈りますが、神様の国が「この世にも満ちわたること」を覚えるわけです。
 暦を通して始めから終わりまで、私たちは神様の国に招かれていることを教えられています。
 弟子たちの確信は、イエス様を通して、神様の御心が明らかにされたということであり、その内容は「神は愛である」ということに他ならなかったわけです。
 神様はわたしたちを愛しておられ、神の国へと招いておられます。これが福音(幸福の音色と書きます)、つまり喜ばしい知らせとよばれる所以です。
 本来、人間は神様の思いに逆らい続けてきたわけで、人間と神様の関係はけして良いはずは無いのです。人間は神様の思いよりも、自分の思いを優先させ、神様をまるで願い事をかなえる召使のようにしか扱わなかったわけですから。
 神様に願い事はしても、神様の願いなど考えることすらしないうえ、自分の願いが叶わなければ、「神などいない」と考えるわけです。
 それにも関わらず、そのように人間と神様との悪い関係を、人間の側からでなく、神様の側から修復しようと、手を差し伸べて下さったわけです。

  初めから終わりまで

 「わたしはアルファであり、オメガである」とイエス様は仰いますが、これは、AからZにあたり、「初めであり、終わりである」ことを意味しています。神様が世界の全ての支配者であることを示しているわけです。
 迫害の中にあっても弟子たちは、にぶい自分たちには判らないけれど、私たちの国はそこまできているという希望を持ち続けました。 神様は、すべてのことを神様の側で用意してくだり、私たちに手を差し伸べてくださいました。
 一方、私たちは自分たちの生活を、神の国に住む者としてふさわしいように整えてきたか、そのことが課題として残されているのです。 私たちは、そのことを覚えて一年を振り返り、また新しい一歩を踏み出す時としたいと思 います。


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