見えないものは永遠に存続する

司祭 パウロ 上原信幸

 前号でユダヤ暦のカレンダーについてふれましたが、ユダヤ歴のお正月では、蜂蜜に浸したリンゴを食べるそうです。甘い(良い)1年を願っての習慣です。
 日本でも正月の食べ物は、昆布、まめ、エビなどそれぞれに由来のある縁起物ですが、「もち」という言葉も、希望の望の字、つまり満月を意味する望月(もちづき)から来ているといいます。そして円満・喜びを意味する言葉ともいわれます。
 正月をあらわす月という言葉は、日本語でも英語でもヘブル語でも、そらに浮かぶあの月から来ています。
 しかし、新年一日を表す月は、希望のもち月ではなく、反対の「朔」で、望月は月半ばの15夜になります。つまり、古く元日や月の初めの日は、満月ではなく、まったく欠けた状態、か細い光をはなつ新月なのです。
 月という漢字自体 満月ではなく、新月からの象形文字です。このか細い月は、これから満ちようとする月、希望の象徴として、様々に用いられますが、ミッションスクールである関西学院のシンボルマークも同様です。

  か細い光

 イエス様は当時の習慣にならって生後8日目に割礼を受け、名前をつけられました。それまでの7日間は、名の無い存在、つまりイスラエルの共同体のメンバー、家族としての扱いを受けない存在、一人の人間として認められない存在であったわけです。
 そのような、はかない存在として、イエス様はこの世界にこられたということです。そして、イエス、「神は救う」という名前をつけられました。
 私たちの祝うクリスマスは、冬至の開けたときです。つまり暗闇が支配する時間が最も長い時、闇が最も深いときに、私たちは光の礼拝を行います。
 旧約聖書でマラキが預言した、新しい太陽・義の太陽の到来を祝うのです。
 わたしたちを取りまく状態は、社会的にも多くの問題があり、必ずしも希望に満ちたものではありません。私たちに示されている救い主は満月のではなく、新月のように幼い姿でした。
 希望の望の字自体、亡い月を聖伸びをして探す姿から来ているといいます。もし、私たちの周りに希望が見えないとしても、私たちは、か弱い幼子に救い主の到来を見いだすように、世の人の見いだすことができない希望を見いだし、確信したいと思います。

  何に目を向けるか

 聖パウロはコリントの信徒への手紙の2で次のように語っています。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。わたしたちはいつも心強いのですが、目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」
 このように、たとえ希望が見えぬ中にあったとしても、希望を伝えるものとして歩むことが望まれていていることを覚えて、今年も歩んでまいりたいと思います。


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