今月中旬から大斎に入ります。その期間中に、私たちは主にならって、信仰的な鍛錬を行います。イエス様は、その活動を始めるにあたり40日もの間、荒れ野で試練を受けられました。
ということは、いとも簡単に悪魔の誘惑を退けられたわけではないということです。それは、この世界が複雑で、「善いこと」つまり、何が善で、何が悪であるかということを、そう単純に分けることができないことの現れであるように思います。
イエス様は、何が人を活かし、何が人をだめにすることになるのかや、何を求め、何を捨てなくてはならないかを、何十日も考えられました。そして活動を始められてからも、何度も祈り、考える時を持たれました。
また、同じ行いをしても、その動機によってその意味が大きく変わることを、私たちは良く知っています。
聖パウロが「全財産を貧しい人々のために使い尽く そうとも、誇ろうとしてわが身を 死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」と教えられている通りです。
何をすれば良いのか
今の時代で何をすればよいのかは、やはり私たちが一人ひとり真剣に考えなくてはならないことです。他人と同じ行為をしていても、イエス様に従うことにならないこともあれば、正反対の行為をしても従うことになることがありうるわけですから。
何を行い、どのように生きようとするのか、これは大斎節のテーマでありますが、イエス様ですら40日かけて取り組まれたわけですから、私たちにとっては、一生をかけて祈り考え続けなければならない課題ということになります。 「神と人とを愛する」という教えのもと、み心をこの地上で実現させる使命を委ねられたキリスト者として、大斎節もその後も歩みたいと思います。
ただ、この期間は、このような美徳に磨きをかけて、神様に近づこうというわけではありません。次のようなエピソードが丁度よい例となるのではないかと思います。
それはイエス様と、対立するファリサイ派の人たちとの会話の場面です。
石を投げる者
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか。」
その問いにイエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と答えられました。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去って、イエス様ひとりと、女性だけが残ったとあります。(ヨハネ伝8章7節〜)
私たちの生活を見直そうというこの時期、正しさを求めるのなら、まずこのように「自分の生活を振り返ってごらん。」というイエス様のメッセージを受け取ることが、私たちの務めではないかと思います。
年長者から立ち去ったと書いてありますが、長く生きたもの程、正しく生きることができなかった記憶が、沢山あったということでしょう。 このような賢明さを身につけた先人たちの例から、学ぶことができればと思います。
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