私たちが、いま過ごしている大斎節は、イエス様が断食をもって荒野で過ごされた40日に倣うものです。
その期間に聖書や霊的読書に勤しみ、善行に努め、また節制したお金や物を献げ、他の人とも分かち合うわけです。しかし、それは、自分探しの旅ではありません。むしろ自分を捨てることが求められます。また、心の大掃除をして、あるいは霊的なリハビリをして、清くなろうということとも少し違います。
そのような清めや救いを、自分自身の力ではもたらすことができないからです。ただ、聖パウロがローマの信徒への手紙の6章で勧めているように、「自分自身を不義のための道具として罪にゆだねるのではなく、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げること、また、不義ではなく正義のための道具として神に献げることができる」と教えられています。
己に克つ
克己という言葉が、大斎節ではしばしば用いられます。ただ、よくお祈りをする信仰深い自分を手に入れることや、やさしく憐れみ深い心の清い自分を手にいれることを目指すのであれば、やはり、自分の満足感を充たすためということになります。
信仰生活の中には、様々な誘惑があります。まさに神様に近づこうとするときに、最も大きく誘惑の力が働くといっても良いでしょう。
イエス様はエルサレムに向かって「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」とおっしゃられました。エルサレムにいたサドカイ派の人々も、ファリサイ派の人々も宗教者でありましたが、そのような人々がイエス様と激しく対立したわけです。
二つの過ち
サドカイ派は祭司を中心とした貴族階級で、ローマとうまくやって今の自分たちの豊かさと、地位を守ることが大切だったわけです。
彼らは復活を信じておりませんでした。「死んで花実が咲くものか」と、祭儀を行い、ご利益を受けることを中心に考えていました。豊かな生活こそ神様の祝福のしるしと考えたのです。
一方ファリサイ派の人びとも、熱心に聖書に親しみ、税金の他に、神様に収入の十分の一を献げ、人びとを教え導き、人に後ろ指をさされるような悪いことはしませんでした。
しかし、自分たちの教え、つまり、自分たちが神様に近い存在であるためには、「神様から遠い汚れた人」をどんどん作り出していきました。そして、自分たちはこんな連中とは違う「清く正しく美しい」人間なのだと考え、そういったことに批判的だったイエス様が、とてもうっとうしかったわけです。
もともとこの二つの派は仲が悪かったのですが、イエス様が邪魔なことにおいては一致していました。
そして、大斎節の間はどちらかというと、サドカイ派が好んだようなこの世的なご利益から離れようとすることを意識しますが、それは、ファリサイ派となってしまう危険を強く持っているわけです。
イエス様は、「神の国と、神の義をまずもとめなさい。」と語られました。大斎節は、どのような節制をして、何を食べることをやめるか、飲むことをやめるか、どのように清い自分を得るかと思い悩むときではなく、自分の時間、自分の力を、神様にどうぞ用いてくださいと、捧げる時としたいと思います。
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