わたし達の心は燃えたではないか

司祭 パウロ 上原信幸

 イースターは教会にとって喜びに溢れた祝日です。しかし、聖書に記されているイエス様のご復活の日の様子は、喜びに溢れたという状況とは少し異なっていました。
 イエス様が復活された日の夕方の出来事にも、それは示されています。その時、エルサレムからエマオという村に向かう二人の弟子がいました。
 その一人はクレオパといいました。名前が残っているということは、良く知られていた信徒だったのでしょう。そのような模範的な弟子でさえ、救い主が十字架の苦しみを受けられるということは、理解できなかったようです。ご復活を信じることができないのか、とぼとぼとエルサレムを後にしました。
 この場合、どのような有能な教師が復活の希望について説いても、信じることは困難かもしれません。そこに現れられたイエス様ご自身が解き明かしてくださっても、旅の道中、彼らは理解できなかったのです。

  沈む心

 彼らにとってみれば、つい1週間前、イエス様はエルサレムの人々の歓呼の声によって迎えられました。人々は偉大なダビデ王の再来のような期待をもって、イエス様を迎えました。
 キリストという言葉は、元来ヘブライ語で「メシア」という言葉をギリシャ語に訳したもので、「油を注がれた者」という意味を持ちます。もともと、油を注ぐというのは任命の儀式でした。指導者として神さまがお選びになった者に、油を注いで、メシアとするのです。
 ダビデは羊飼いの末っ子でしたが、油を注がれて王となり、当時イスラエルの人々を苦しめていたペリシテから国を救ったのでした。 このクレオパも、イエス様を押し立てて、イスラエルをローマから救おうとする者の一人だったのかもしれません。しかし、彼らの夢はやぶれて、イエス様はローマに対する反逆者として、殺されてしまいました。
 ご復活のイエス様は、このように挫折して、希望を失ってしまった弟子達と共に、エマオに向かって歩まれました。しかし、弟子たちは共に旅するイエス様に気づきませんでした。信仰がゆらぎ、落胆し、希望を失っなっていたので、彼らはイエス様に気づくことができなかったのかもしれません。

  目が開かれる

 そのような彼らの目が開かれたのは、宿について、イエス様が彼らのために夕食のパンを割いて、渡されたときでした。まさに聖餐のうちに彼らの目が開かれたということができます。
 パンが裂かれること、つまり、イエス様が苦しみを受けられ、身体が割かれることによって、私たちに救いがもたらされたのです。
 日々の生活の中で、私たちの目が、そして心がふさがれるとき、閉ざされたものを開くことができるのは、主の聖餐だということをこの物語は教えてくれます。
 もし、私たちが、信仰生活に疑問を感じたり、聖餐を受けることの意味を感じることができない時があれば、どうすればよいのでしょうか。 そのときこそ、私たちの目が、そして心が開かれるために、聖餐を受けるべきだということが、この物語から学ぶべきことだと思います。ことに、この復活節に、共に聖餐にあずかりましょう。


© 2024 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai