相互の交わり、パンを裂くこと祈ることに熱心であった

司祭 パウロ 上原信幸

 間もなく迎えようとする聖霊降臨日は、教会にとってクリスマスやイースターに並ぶ大祝祭で、教会の誕生日ともいうべき日です。
 初代教会の指導者で、迫害の時代に教会を支えたキプリアヌスという主教様は、教会ついて、「教会を母としないものは、神様を父とすることができない。」と語っています。
 しかし、違った考え方もあるでしょう。「信仰とは、神様を父親のように慕い、熱心に祈りを献げ、神様に従っていればそれで良いのだ。煩わしい人間同士の交わりは、必要ではないのではないか」と考える人もいるでしょう。
 しかし、それだけではだめなのだと、この主教様は言うのです。母としての教会をもたねばならない。そうでなければ、神様を父とすることができない。つまり、神の子であることはできないというのです。
 この母なる教会というのは、いったいどうものかといいますと、信仰者を生み、育てる役割をもったものということです。「そのような交わりに加えられているのだ」という実感を持たない限り、きわめて偏った信仰となってしまうのだということを伝えようとしているのです。
 子を生み、育てるというのは、お母さん方が体験されておられますように、とても大変な労力と、忍耐と、時を必要とすることです。
 クリスチャンというのは皆、このように生んでもらい、育てられる「人間の交わり」が必要なのだということです。
 このような教会の側面を理解しないで、付き合いの煩わしさ、人間関係の煩雑さだけに気をとられて、そのつらなりから逃げていれば、人間同士のふれあいから生まれてくる感動や、幸せを体験することなく、自分中心の甘えた信仰しかもてなくなるわけです。

  盲目の青年

 ある青年が病気のために視力を失い、病院で入院生活を余儀なくされました。
 お母さんは日々、病室で彼に新聞を読んでくれたそうですが、老眼と、判らない専門用語が多いので、すらすらとは読めなかったそうです。彼はそのたどたどしい朗読にイライラし、つい怒鳴ってしまいましたが、すぐに、自分のわがままを詫びたそうです。
 お母さんは、泣きながら「あなたのわがままが辛いのではなく、今まで新聞でもなんでも自由に読めたのに、それができないあなたの不自由さを思うと、それが辛い。できるなら私の目をあげたい。あなたが見えるようになれたら、私は一生どこにも行けず座ったままでいる方が、ずっと幸せだと思う」と言われたそうです。そのような母親によって、その青年は闘病生活をおくる活力を得、また、信仰へと導かれたそうです。
 スーパーマンではなく、老眼で新聞の専門用語もよくわからないお母さんを通して、一人の青年が生きる希望をとりもどしたこの話が、キプリアヌスの語る教会の意味をよく表しているように思います。様々な限界を持つ人間同士の交わりを通して、神様の愛は示されていくという事を、聖霊降臨日を迎えるこの季節に覚えたいと思います。


© 2024 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai