6月に入り、教会暦ではひと月早く1年の折り返しを迎えました。
イエス様の昇天と聖霊降臨の後、弟子たちはイエス様に倣って歩み始めました。しかし、そのあり方は一様ではありませんでした。
そのような歩みを聖パウロはエフェソ書の中で「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、ある人を教師とされた」と語っています。それぞれの賜物に応じて、様々な役割が与えられました。
世の中で最近、カリスマという言葉をよく耳にします。しばしば指導者・才能のある人に用いられている言葉ですが、もともとカリス=(神様からの)恵み・慈悲・助け・恩典を意味する言葉からきています。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。(エフェソ書4章7節)」とある「恵み」という言葉こそがカリスなのです。
そのような恵みに満たされ、わたしたちは奉仕の業に適した者とされ、成熟した人間になり、キリストに倣うものとして成長するわけです。
私たちには、他人と違った、それぞれにふさわしいカリスマが与えられていることを、大切にしたいと思います。
「すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。(エフェソ書4章10節)」とあるように、イエス様のご昇天と聖霊降臨は、わたしたちを恵みによって満たすという目的のためだったのです。
新しい生活
聖パウロは、古い生き方を捨てることを勧め、そして、恵みに満たされた新しい生活をするための方法として、次のように続けています。
「わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ書4章26節)」
人間にとって、怒るということはしばしばあることです。イエス様もしばしば怒られました。不正義に対して憤られたというほうが正確かもしれません。
当時の一日というのは、日暮れから始まっていましたので、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」ということは、怒りを次の日まで持ち越してはいけない。あるいは怒ったまま新しい日を始めてはいけないということになります。
聖パウロだけではなく、聖ヤコブも「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです」と語っています。
怒りというのがやっかいなのは、怒っているということは、「自分が正しい」と思うから怒っているのであって、少なくとも自分が間違っているとは思っていないところに問題が生じてくるわけです。
イエス様が、大切な祈りとして主の祈りの中で「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください。」と教えてくださったのも日々意識しなくてはならないからです。 そしてそのような生き方を「光の子としての歩み」と、教えています。
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