杖も袋も持たずに

司祭 パウロ 上原信幸

 夏休みに入り、神戸を訪れる観光客の中に学生風の旅行者を多く見かけるようになりました。以前のようにカメラ持参の人を見ることは少なくなりましたが、その代わりスマホと自撮棒が大活躍しています。
 旅行やキャンプに行くとき、カバンに何を詰めるかいろいろと思案します。
 イエス様は弟子達を旅に送り出すとき、「杖も袋も持たずに旅立つよう」にとおっしゃいました。
 これらは旅人にとっては身を守る必需品でした。杖は獣や強盗から身を守る道具としても使え、袋は旅先で汚れた食物を食べなくてもすむように、清い食料を運ぶ入れ物です。つまり汚れから身を守るための大切な道具でした。
 イエス様は、自らの安全を守るため持っていることが当然と思われるものを置いていきなさいと言われたのです。
 この自らの安全を保障する道具は、悲しいことに武器としての杖であったり、異邦人などを汚れた者として蔑み、自らの清さを保ち、食生活を安定させるための袋だったのです。

  無  頓  着

 数年前カンタベリー大主教をお迎えして長崎で行われたカトリックとの合同礼拝で、両教会代表による代祷が献げられました。その一節は下記のようなものでした。
 「父よ、わたしたちは武器を手にいたしません。でもわたしたちの心の中には、憎しみ、ねたみ、おごり、偏見など、人を傷つけ、戦火を引き起こすたくさんの心の武器があることに無頓着です。まず私たちが、心の武器を捨て、主がお示しになった愛とゆるし、忍耐と祈りによって平和を実現するものとなれますように。」
 人は自らの安全を守るために、様々な手段を持ちます。他人の中傷や批判に負けないための手段。社会の落伍者となって路頭に迷わないため、また相手より優位に立つための手段。これらをしっかりと持っていないと、豊かで安定した生活を望むことはできないと考えるからです。
 しかし、弟子達を杖も袋も持たせずに送り出された主は、必要なものは与えてくださることを約束されます。
 弟子達の持つ12の籠が空であったとき、多くの人達を養って、そのうえ彼らの籠を満たしてくださった主が、それを約束されます。
 イエス様は神の国について「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」と教えておられます。
  何も持たずにこの世を旅した者を、主は神の国の宴席でもてなしてくださることに希望を持ちたいと思います。
 8月の特祷で「人間ははかないものであり、あなたに頼らなければ倒れてしまうほかありません」「教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。どうか絶えることのない助けをもって主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保ってください」と祈ります。 自らの杖によって立つのではなく、自らの袋によって清められるのでもなく、主の助けによって歩んで、 神の国の門をくぐりたいと思います。


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