七の七十倍

司祭 パウロ 上原信幸

 今、木曜日午前の聖書研究では聖ペテロの記した書簡を読んでいます。彼はイエス様に対して「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と質問したことがあります。
 仏の顔も3度までと言いますが、3回赦すことが出来ればたいしたものです。しかし、イエス様はこともなげに7を70倍しろとおっしゃいます。

  積み重ね

 さて、買い物した折にポイントカードというものを戴くことがあります。何回買い物をすればとか、何点集めれば特典があるというものです。
 しかし私はそれが100ポイントとかであれば、まずあきらめます。もうそのカードは持ちません。またポイントがつくのも100円とか200円とかであればまだしも、500円とか1000円になれば、そのカードは自分とは縁のないものとして捨てます。まして490回というポイントカードでは絶対に無理です。
 イエス様がおっしゃる7の70倍=490回赦しなさいということは、490回数えなさいということではなく、数えるのをやめなさいというのに等しいのです。
 そして、そのような教えは正しく理想的なのでしょうが、人間にとっては非常に残酷なものです。 何回罪を犯しても、まるでこれまで何もなかったかのように赦しなさいと、イエス様はおっしゃるのです。無限ということは、人間には不可能な課題です。
 1円1ポイントのカードであれば、490ポイントなどわけないことでしょう。しかし、「赦し」であれば1回でも難しいことがあります。おまけにこのポイントカードは、別の人に使えるわけではありません。赦しのポイントカードは、嫌な相手の人数分持たなくてはならないわけです。

   神様の特典

 1回2回と歯を食いしばって、相手の罪を赦した回数を数えている内は、復讐の時期を待っているのであって、結局は1度も赦していないわけです。ゴールに近づけば励みもでるのでしょうが、数えることに縛られている間は、自分も恨みから、自由になれないのです。
 そこで、イエス様は一つのたとえを話されます。
 一生かかっても払いきれない負債を抱えた家来を、王様は憐れに思って赦します。一万タラントンの借金のたとえ話です。
 イエス様は、「お前たちは半年分赦したとか1年分ゆるしたとか、ゆるさなかったとか、あるいはその7倍赦したとか、そんな話をしている。しかし、おまえ達一人一人は1万回生まれかわっても返しきれないような負い目を神様に対して負い、それを赦されたことを忘れている。」これがイエス様のメッセージでしょう。
 ひたすら自己犠牲を行うことによって他人を赦してやろうというのでは無理です。「この仕打ちを赦そう」とか「この一言を我慢しよう」と、一つ一つの出来事をこのように努力しようとすること は、言い換えれば、「自分がどれだけ神様から赦されているか」ということに気づけるかにかかっていると言えます。
 まず、自分がどれだけ忍耐をもって赦されたか考えること。そのことに気づくことが出来れば、また新しいスタートが切れるのではないかと思います。


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