イエスの名のため辱めを受けるほどの者

司祭 パウロ 上原信幸

 巷ではいつの頃からかハロウィンのイベントが盛んになりました。欧米では諸聖徒日の前夜祭となっていたようですが、古くは異教の暦の区切りともなっていたようです。
 ハロウィンの死生観はキリスト教とあまり関係ありませんが、丁度お盆の頃の怪談のように、人々の生活の中に定着していったようです。
 11月は諸聖徒日から始まり、諸魂日や逝去者記念礼拝が行われます。私たちは先人たちを覚え、また、誇りとします。
 使徒が誇りとしたものはなにかというと、それは、成功や業績ではありませんでした。
 聖書を見るとイエス様の弟子たちの誇りは、成し遂げたことではなく、苦しみを数えることにありました。
 もちろん、私はこんなに苦労しているのだと自慢しているのではありません。自分たちの弱さや、無力さを支えてくださり、そのように弱い人間をも、 使徒として用いてくださる神様をおいて、他に何を誇るのかと聖パウロは語っています。

  神様が誇りとされる者

 使徒たちは、迫害されムチ打たれたとき、弱い自分を、「神様のために辱めを受ける資格のある者」にしていただいたことを、喜びとしたわけです。
 聖パウロは「あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています。」と記しています。
 私たちはよく、信仰のおかげでこのような恵みを受けたとか、このようなものを得たとかいうことを聞くことがあります。しかし、逆に、イエス様に従うことによって、「あれを失った」「これを失った」と喜びと誇りをもって言えるでしょうか。失い、傷つくことが、神様の働き手としての恵みだと感じることができるでしょうか。
 子どもが節くれ立った父の手に、また、荒れてささくれだった母の手に、感謝の思いと、誇りを感じるように、また仕事で傷つき荒れた手を自ら誇りとするのと同様に、誇りとするのは傷だというわけです。
 私たちがもし、不安で、しばしば眠れず、苦しむことがあれば、私たちはそれを誇りとすることが出来るのです。
 そのような災難や試練を克服できたことや、それを通して成長できたことを誇りとするのではありません。
 むしろ、傷つき、立ち往生し、乗り越えることが出来ず、そのような痛みと傷を負っていることが、誇りとなるのです。

  主に倣う

 かつて、傷を負い、苦難を担われ、立ち往生した信仰の先輩たちと、そしてイエス様と同様であることを、誇りとできるわけです。
 昔、日本では畳の上でなくなることを大往生と言っていました。そして、どうにもうまくいかないことを立ち往生といいます。
 畳の上で死ねないというのは、悪い死に方でした。そういった意味では、イエス様は畳の上では死ねなかった。しかし、それは私たちのためなのです。イエス様は私たちの為に、安穏と生きられることをなされなかったのです。
 教会は、その姿勢に感謝してイエス様の立ち往生の姿である十字架を、神様の愛のシンボルとして2000年間大切にし続けたのです。 逝去者記念を行う今月、もし私たちの世代が苦難を背負い、悩みを身に負うことが、また、眠れぬ夜を過ごすことが、私たちの、そして来る世の、次の世代の誇りともなることを、覚えたいと思います。


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