歩みを平和の道に導く者

司祭 パウロ 上原信幸

 いよいよ降臨節に入り、教会の新しい1年が始まりました。
 私たちは、しばしば「降臨節の間に、心の中の大掃除をしてクリスマスを迎えよう」という表現を用います。
 しかし、私たち自身の力では、私たち自身を清めることはできません。どちらかといえば、家の中の一室に開かずの間を作って、そこへ全てを投げ込んでいるようなものかもしれません。もし、わたしたちが自分の力で、自らを清めることができれば、救い主はこの世においでになる必要はないわけですから。
 洗礼者ヨハネは、ユダヤ人たちから、「あなたは一体なに者か」と問われた時に、「私は荒れ野で叫ぶ声である」と言いました。
 この荒野という場所は、全くの不毛で生命の生存を決して許さない場所 = 神様だけに頼ることしか道のない「試練の場所」という意味があります。
 そして、もう1つのイメージは、人間の罪により「神さまの祝福を失ってしまった場所」として理解されていたようです。
 たとえ表面的には快適な生活をおくることに恵まれていても、神様を見失った心は、精神的には不毛な荒れ野といえるわけです。

  備えの時

 こうした荒れ野で呼びかけ、神さまへの目覚め、悔い改めを訴えていったのが「荒れ野に叫ぶ声」つまりヨハネの叫びということになります。この訴えは人びとの心をうち、多くの人たちが彼に従いました。
 そのような時、ヨハネにむかって「あなたがメシヤ救い主か」と問う人たちがいました。彼は応えて「自分は主の道をまっすぐにする者で、その方がきたならば、自分は衰えねばならない」と告白しました。「主が栄え、自分が衰える」というのはキリストによって遣わされた者の使命を言い表している、非常に重要な言葉です。
 ヨハネの役割は、来るべき主キリストを迎えるために、人々の心を謙虚な姿勢で準備させることでした。
 当時、宗教的なリーダーはファリサイ派の人たちでしたが、多くの場合、外面的なことに捕らわれてしまって、内面的な心の大切さを軽く見ていました。
 イエス様は、この人たちに向かって「ものの見えないファリサイ派の人々、まず、内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」とおっしゃいました。

  備えの整わぬ私たち

 洗礼者ヨハネの父ザカリアは、我が子のヨハネが、神様のメッセンジャーとして、「神の憐れみが、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、その歩みを平和の道に導く。」ということを告げる者になると、宣言しました。この言葉は、祈祷書の朝の礼拝式文中に「ザカリアの賛歌」としてあります。
 その賛歌の中には、「罪の赦しによる救いを、その民にしらせる」とあります。 備えの整わぬ私たちのところにおいでになろうとされる主を、謙虚に私たちの内にお受けすることが、最も良い備えなのだということを覚えたいと思います。


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