乏しい中から持っている物をすべて入れたからである

司祭 パウロ 上原信幸

 今から百年ほど前、英国の貧しい老婦人が逝去された後、その枕元には、「年金の中から海外伝道のために、蓄えてあるお金があるので、用いて欲しい」という手紙と、こつこつとためた銅貨がありました。 牧師はとても感動し、会衆に海外伝道の必要を説き、多くの献金が集まり、日本への伝道資金になりました。これは、米子の教会に伝えられた逸話です。米子は空襲で焼けることがなかったので、そのような記録が残っていました。
 1976年(明治9年)に、フォス、プランマー両師が来神され、教会の働きが始まり、戦後のバラックの時を含めると、現在のミカエル聖堂は6番目となります。
 その建設にあたっては、同じような募金活動が、英国をはじめ、多くの場所で行われたことだと思います。日曜学校の子どもたちから高齢の方まで、日本の教会・学校・病院の設立のために献金が捧げられ、そのような奉献先の一つがミカエル教会だったわけです。
 以前、北海道の美術館から、「ミカエル教会の窓に、英国のステンドグラスの大家による作品が、収められているという戦前の資料がある。当時、日本では唯一のものであった。空襲で焼けたとしても、写真などの資料はないか?」というおたずねがありました。 残念ながら、記録写真はありませんでしたが、戦前のミカエル教会を知る一端にもなりました。

  大斎の捧げもの

 間もなく大斎節が始まろうとしています。古くから、復活日を迎える準備として、克己の心をもって生活するように勧められてきました。
 己に打ち克つために、ことに信仰生活の充実に努め、節制に心がけてそれによって倹約したものを捧げる「克己献金」もおこなわれてきました。英国では卵やバターさえ贅沢品として、大斎節の40日間は控える慣習があったそうです。そのような節制によって献げられた浄財によって、ミカエル教会の礎が据えられ、また、維持されてきたわけです。

  まだ見ぬ友のため

 聖書の中には、神殿の賽銭箱に老婦人が銅貨2つを献げ、イエス様が「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」と、お褒めになる場面があります。
 銅貨2枚ですから、10円玉2枚程度とそう大きな違いはないでしょう。しかし、それは生活費の全てだったといいます。
 日本でも大斎克己献金は1950年から管区の働きとして、制度化され、大斎節に壁や柱に献金袋が掛けられているのは、この季節の風物詩となりました。
 単にあまりものを捧げるのではなく、先人たちがまだ見ぬ異国の人々のためにと、生活を切り詰めて捧げて下さったことを覚えたいと思います。 おやつを我慢し、あるいは文具を新しくすることをあきらめて捧げてくれた子どもたちもいたでしょう。 そのような先人たちの信仰によって、私たちの信仰生活がなりたっていることを覚え、また我々も先人となっていくことを学びたいと思います。


© 2024 the Cathedral Church of St.Michael diocese of kobe nippon sei ko kai