大斎節は特に主のご受難を覚える季節です。
イエス様が、ご自分が多くの苦しみを受け、殺されるということをお話になったとき、聖ペテロは「そんなことがあってはなりません」と否定しました。
このとき、間違いなくこのイエス様の一番弟子は、イエス様を救い主として信じてはいましたが、あくまで自分にとって都合のよい救い主像を思い描いていたのです。 「キリスト」という言葉は、「メシア」という言葉のギリシャ語訳ですが、もともとはともに「油注がれた者」という意味で、古くから王様の任命に行われていた油を注ぐ儀式に由来します。
ダビデ王もソロモン王も、みんな油を注がれて王様になったわけです。聖ペテロもそのようなメシアのイメージをもっていただろうと想像できます。
ですから、彼らが「イエス様がローマを追い払って、神の国を建設してくださるぞ!」とか、「傭兵出身のヘロデ王や、ローマの支配の中でうまくやっていこうとする貴族を追い払って、民衆による革命を!」などと考えていたことは、弟子の中に右翼的な熱心党員がいたことからも、うかがえます。
終わりではなく始まり
そんなことを考えている者にとって、イエス様が捕えられて十字架につけられるというのであれば、「何のために活動しているのか判らない」といった考えであったでしょう。
しかし、弟子たちが「イエス様が殺されてしまうのであれば、それで終わりだ」と思ったことが、「実は人間の救済のスタートなのだ。そのために私は活動を始めたのだ」と、イエス様はおっしゃったのです。
そして、これらの事が聖書として書き残されたのは、イエス様の弟子たちが大きく失敗したことを、後に伝えたかったということです。隠し損ねたのではなく、失敗したからこそ、弱い者であったことを知ったからこそ、イエス様の弟子として用いられたのです。
信仰の道に入る時には、それぞれ期待に満ちているわけですが、時として自分にとって心地よいメッセージだけを聞きたいという思いが先立ち、自分の理解や期待を超えたメッセージには、心も耳も開けないことがあります。
イエス様の弟子たちもそうでした。
清い自分
人は都合の良い言葉には弱いものです。もちろん、ただ甘い言葉というより、少し辛口のほうが、真実味みがあり、少し苦労があったほうが、より清く自分を得ることができるような気になれるわけです。
ところが、イエス様はそんなものは捨ててしまいなさいと、おっしゃるのです。もともと、そのような形で人間が救われるのであれば、救い主など必要ないわけですから。しかし、神様の側はそのような人間を、見捨てるのではなく、大切な存在として係わろうとされていることを覚えたいと思います。聖パウロは「どのようなものも、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」と教えています。 イエス様は、自らを助ける力のない私たちを見捨てるのではなく、大切な存在とさたことを覚えて、日々を過ごすことができればと思います。
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